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歌舞伎は日本の一種の伝統的な芸術文化として、昔から今まで伝えられている。四百年の風雨を経て、歌舞伎はますます華美になるようだ。
歌舞伎は若者にとって、神秘、見知らぬものだ。この論文の中で、私は歌舞伎の歴史、特徴、演じる内容、脚本家などいろいろな基本的な知識を紹介している。もちろん、私にとってもっとも大切なことは歌舞伎と中国の文化を結び付けて考えることである。いろいろな資料を見た後、歌舞伎の起源と中国の古代文化が緊密な関係を持っていることを確認した。中国の古代文化は歌舞伎の形成にとって、大きく貢献した。
そして、歌舞伎はまた私に中国の芝居、京劇を思わせた。京劇は歌舞伎と同じで、長い歴史をもって、両者は「東方の伝統芸術の姉妹花」と称される。比較によって、異なる国に属しても、似ているところが沢山ある。そして、「西太后」、「出世太阁記」などという中国の芝居は改編されて、二十世紀の歌舞伎のレパートリーになった。近年来、中日両国の芸術家が交流して、いろいろな合作の過程の中で、出演風格、服装化粧、表現技巧、舞台背景という方面で、歌舞伎は中国芝居の表現方法を吸収している。
歌舞伎はもう四百年の風雪を乗り越えてきた。時間に磨かれていることを通って,ますますまばゆいばかりに美しくなると信じる。
キーワード:歌舞伎 演劇 京劇 伝統 文化
序 論
日本はいろいろな文化がある国家である。その中で、私にとっては、一番興味を持っているのは歌舞伎である。
歌舞伎は日本に特有な文化で、世界の中で唯一無二のものである。中国人である私にとっては、歌舞伎も一種の神秘的な文化である。神秘である上にさらに「美」がある。それが、私が歌舞伎に深く引きつけられている理由である。
日本で歌舞伎は伝統文化として昔から伝わってきている。これは中国の京劇によく似ている。歴史が長く、月日が流れるにつれて、この文化はますます完璧になっている。これはもう文芸というだけではなく、文化の象徴になって
いる。歌舞伎を見れば文化の薫陶を受けることができる。
私は歌舞伎に接触してから、特別なものと思っているので、インターネットで調査した。歌舞伎はいったいどのような文化であろうか、いつ形成されたのか、どんな内容を演じるのかなどいろいろな問題を知りたい。歌舞伎は現代の演劇映画と異なる。人物の姿、会話のしかた、演じる内容など、難しいが、面白い。
日本では、最近、若い歌舞伎役者が、若者に人気があるらしいが、中国では、若者は歌舞伎などの古い文化があまり好きではない。流行を追いかけることがすきだ。これも私が歌舞伎について書く理由だ。私のような若者に歌舞伎を理解してほしいと思う。
本 論
―歌舞伎の起源―
歌舞伎は十七世紀に出雲地方の舞踏からうつり変っていく舞踏芸術である。日本の代表的伝統演劇の一つで、1603年ごろ出雲大社の巫女?阿国が京都で念仏踊りを興したのがはじめとされている。人気が出たが、女性の歌舞伎は風紀を乱すと禁止され、若衆歌舞伎を経って、筋立てに重点をおく。野郎歌舞伎に発展して現代に至る。そのために、歌舞伎においては男性役も女性役も、すべて男優が演じる。それは江戸時代の文化の練熟の中で洗練されて完成し、独特の美の世界を形成する。中世の能楽が貴族階級に育成された芸術だとすれば、歌舞伎はまったく民衆の支持の下で発展してきた群衆演劇である。
以下に歌舞伎の語源を記す。
―歌舞伎の語源―
カブキは漢字で書けば、「傾き」である。「傾く(かぶく)」という動詞の連用形の名詞用法である。「傾いている」「真っすぐでない」「正しい道筋からはずれた行動する」「勝手気ままにふるまう」。ことに、「異相」、普通でない風姿。それがカブキという言葉のもともとの意味である。「正しい道筋からはずれた行動をする」。つまり世間の秩序に反し、伝統や権威や常識などに反発して、自己を強く主張して生きてゆく。そういう生き方をする自己顕示欲の強い人々をカブキ者と呼んでいた。16世紀の末から17世紀の初めころのことである。日本のカブキ踊りに始まり、時々の社会が生み出すカブキ者を主人公として発展しながら、カブキ者を描き続けることによって歌舞伎はカブキでありえた。
カブキ者とは社会秩序から疎外された人間でアイデンティティを喪失し、両義的生に引き裂かれて生きる人物、また、下降した社会的立場に自分の人生を一致させて生きるドロップアウトした人々、あるいは、両義的な生的状況の消滅によって、アイデンティティのありかが見えなくなってしまった人々、もしくは、社会秩序を自ら疎外して生きる、自我に目覚めた孤高の反秩序存在である。(『歌舞伎の歴史』)
―歌舞伎の発展―
元禄:
1680年以後、即ち、元禄時代に入ってから、歌舞伎は成熟する段階になった。上方では柔かな恋愛物の演劇「和事(わごと)」の坂田藤十郎が、また江戸時代では勇壮な荒武者などの演技「荒事(あらごと)」の市川団十郎が活躍する。有名な劇作家近松門佐衛門は多くの歌舞伎脚本を書いた。
元禄以後:
元禄以後の歌舞伎の題材は以前よりもっとも広がりを見せる。多くの早期の
—2—
歌舞伎は能と狂言の筋を脚本としたものである。近松につづく脚本家は現実の生活を反映することを重視し、脚本の題材はとても豊かである。上方の並木正三は浄瑠璃から劇的要素を取り入れ「廻り舞台」などの大仕掛けな舞台を現出した。また、上方の並木五瓶は上方と江戸の両方で活動し、上方の写実合理性を江戸歌舞伎に融合させた。
江戸末:
歌舞伎の中心は江戸に移り、写実性の強い生世話物(きぜわもの)を得意とする鶴屋南北(四世)が『東海道四谷怪談』などの傑作を残した。江戸末期から明治初期にかけては、河竹黙阿彌が活躍した。彼は一生の中で約三百六十本の歌舞伎脚本を書いた。即ち、『三人吉三巴狼』、『七蜘蛛』などいろいろ作品がある。
明冶初期:
明治初期の演劇は歌舞伎を主とする。河竹黙阿彌は河黙阿彌と改名して、新しい脚本を書いた。すなわち、「生きる歴史の芝居」である。俳優は九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎、市川左団次を中心としている。この時の日本演劇界は欧米文化の影響をうける。しかし、歌舞伎と欧米の演劇を結合する問題がよく解決されなかった。明治二十二年には、東京に歌舞伎座を建てた。これはもっとも新しい大きな歌舞伎劇場である。欧米文化の影響の下で、新しい歌舞伎ともいえる「新劇」ができた。ヨーロッパやアジア、アメリカなど海外公演も盛んになり、ヨーロッパ歌舞伎会議やヨーロッパ日本演劇研究センターなど西洋人学者の研究組織も成立した。
日本の歌舞伎は、形成期から現在まで、歴史は四百年にもなる。この発展する過程の中で、代々の舞台芸術家の長い探求と創造を通じて、彼らのあらゆる苦労のおかげで、日本の民族の特色に富んだ華美な芝居体系を形成する。
―歌舞伎は中国文化の影響を受ける―
歌舞伎の芸術変化の過程は終始中国の伝統文化というこの根から離れていないのだ。日本伝統芸術の「芝居」の誕生、発展、形成が中国伝統文化芸術と緊密に結びつく。日本の舞楽、能、狂言は中国文化の精華のもとで、日本自身の伝統文化をむすびつけて、形成された民族芝居である。歌舞伎はまた舞楽、能、狂言、浄瑠璃という「芝居」のもとで、直接に中国伝統芝居の芸術栄養を吸収して、それから、摂取、消化、分解、日本江戸庶民の審美の情趣に溶けあって、芸術を再生する軌道に取り入れてから、新たに創造している日本民族芝居である。
民族芸術を創造している歴史の過程の中で、歌舞伎は誕生の十六世紀から十九世紀まで、一貫して中国の伝統の演出のレパートリーにも、歌舞伎の演出している舞台にも、すべて中国伝統の芸術文化の痕跡を残した。
たとえば、日本でとても人気がある中国の玄宗皇帝と杨贵妃の愛情物語は歌舞伎の舞台で上演されたことがある。日本の演劇の資料の記録によって、天文十三年、日本で奈良多峰の妙楽寺で、歌舞の形式で、「玄宗皇帝幸月宫事」を演じたという。
—3—
二十世紀の歌舞伎の舞台で、「西太后」、「出世太閣記」などいろいろな中国の芝居は改編されて、歌舞伎のレパートリーになった。近年来、中国両国の芸術家たちが交流して、いろいろな合作している過程の中で、出演風格、服装化粧、表演技巧、舞台背景という方面で、歌舞伎は中国の芝居の表現方法を吸収した。
―京劇の歴史―
日本には歌舞伎があるが、中国には京劇がある。京劇と歌舞伎は中日両国の伝統的な芸術である。
「東方のオペラ」と言われる京劇は、中国文化の一つで、北京で生まれたことからその名が付いた。
京劇には200年あまりの歴史がある。その由来はいくつかの古来の地方劇に遡り、中でも、十八世紀に流行していた中国南方の地方劇「徽班」の影響が大きい。1790年、最初の徽班が上京し、皇帝の誕生慶賀公演に参加した後、いくつもの徽班が相次いで上京した。徽班はほかの芝居の演目や表現方法を吸収するのに長けていた。当時から北京には数多くの地方劇が集まっていたため、上京した徽班は、他の地方劇を積極的に取り入れ、その芸術性を著しく向上させた。その後、十九世紀から二十世紀初め、数十年をかけて京劇が形成され、中国最大の演劇文化となった。
―歌舞伎と京劇の比較―
歴史から見れば、中国の京劇は歌舞伎より、200年ぐらい遅く形成された。
京劇は「唱」(歌い)、「念」(読み上げ)、「做」(演技)、「打」(立ち回り)、「舞」(踊り)を一体に、決まった型を通して物語を展開し、人物を描写する総合的舞台芸術である。歌舞伎は一般的に歌う言葉、せりふ、踊りの三つの部分からなっている。
京劇の役柄は主に生(男性)、旦(女性)、浄(男性)、丑(男性も女性も兼ねる)の四つに大別される。このほか、脇役の役柄もある。
歌舞伎は役者の分類、典型化、人間性、年齢、論理的性格を基準として行われる。性別によるものとは、男と女である。年齢別によるものには、成人と未成人、老人と若者という二つの尺度がある。論理的性格によるものとは、善の立場に立つものと悪の立場に立つもの。その結果、六種の役柄が成立した。立役、女方、若衆方、新仁方、適役、花車方、それに、粗忽者や阿呆を演じ、もっぱら観衆を笑わせる役をつとめる道化を加えた七種の役柄をもって基本とする。
以下に、歌舞伎の役柄を示す。
―歌舞伎役柄に関する言葉―
赤っ面
顔を赤く塗ったら皆赤っ面かとゆーと、そうではなくて、赤い顔をした小僧らしい適役を指す。さほど偉いもないのに威張り散りしたりする小役人などに多い。本当に憎くい大悪党は青白い顔をしているので、違いを観察すると面白いと思う。
親仁方
歌舞伎の「おやじ」はイコール爺。見りゃ分かる。白髪にシワだもん。現代じゃあ「おやじ」の守備範囲は相当広い。OLにだっておやじがいるからね~。
花車方
中年以上の女性の役のこと。「花車」って、花街の茶屋女房や仲居さんのことを言うんだって。だから、本来は、そうした役柄を指していたのかもしれないけど、いまでは老女の役までをも含めての総称になってるらしい。
敵役
ヒーロー、ヒロインに対する悪人の役の総称。つまりは嫌われ役なんだけど、その役によっては役者の技量を要求するものもある。
立役
男役のこと。
若衆
前髪のある少年の役。きりっとしてるんだけど色っぽい。少年の美を売り物にするジャニーズ系アイドルのようなもの。
道外方
文字どおり滑稽な役。おどけて観客を笑わせる。つまりは三枚目。この手の役は、見るからに道化と分かるヘンテコな髪型のかつらをかぶっていたり、メイクをしていたりするから分かりやすい。けど、言ってること、やってることが笑えるかどうか、はまた別モノ。笑いは多分に時代の空気とか身体感覚と密接だと思うから。道化のカタチ、と思って見た方がスカがないだろうなあ。<インターネート>
歌舞伎と中国の京劇は「東方の伝統芸術の姉妹花」と言われる。清代の詩人、黄遵宪は『日本雑事詩』の中で、歌舞伎と京劇をほめたたえた。しかし、歌舞伎と京劇の精神の交流は二十世紀初期になってやっと実現した。
1914年四月、日本芸術家、龙居濑三の招きに応じて、京劇の巨匠、梅蘭芳は日本へ公演に行った。梅蘭芳は『虹霓关』、『贵妃醉酒』などよろいろな京劇のレパートリーを披露した。そして、中国の俳優と日本の俳優と一緒に出演している。梅蘭芳の演技は芸術評論家にしきりに褒め称えられた。明らかに、中国の京劇芸術は日本の観衆を魅了した。同時、梅蘭芳はまた守田勘弥などの歌舞伎俳優と楽しく一堂に集まって交流して、お互いに深い感情を結んだ。
—5—
結 論
歌舞伎は生きている。「生きている」とはどういうことか。それは、社会生活の条件、人々の知性や感性の変化にしたがって、常に歌舞伎が変化するということである。歌舞伎はどのようにして生きているのだろうか。古典的なレパートリーが主流を占め、しかも、同じ狂言の繰り返しが多く、新作はほとんど上演されなくなった浄瑠璃は享保以後衰退した。新作がでないということは歌舞伎にとっても致命的である。
新作によって古典が相対化され、古典の現代的意義ないし生命が再発現されるのである。そうでなければ、古典そのものの内容が衰弱し、上演の技術と様式のみが形骸化され、ある種の美の感動は与えても、内容の持つ深い劇的感動は失われてゆく。日本のカブキ踊りに始まり、時々の社会が生み出すカブキ者を主人公として発見しながら、カブキ者をえがき続けることによって、歌舞伎はカブキでありえた。カブキ者とは社会秩序から疎外された人間であり。彼らは社会秩序を自ら疎外して生きる、自我に目覚めた孤高の反秩序的存在である。
21世紀の現代に、彼ら、カブキ者が演ずる舞台を新たに創り出していくことで、歌舞伎は不滅となりうる。
この論文の中で、私は歌舞伎の歴史、歌舞伎の構造、中日国粋の比較、及びなぜ「カブキ」と呼ばれるのか。自らに投げかけたそれらの疑問に答えねばならぬと思ったのが、この論文を書く動機である。私は歌舞伎を詳しく調べる中で、歌舞伎の美を見た。歌舞伎は永遠に日本芸術の美しい花である。
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