用日语介绍富士山
概要
山梨県侧(河口湖から)
静冈県侧(富士宫市から)
国际宇宙ステーションから见た富士山(2001年5月27日アメリカ航空宇宙局)
富士山の优美な风貌は、国内のみならず海外でも日本の象徴として広く知られている。芙蓉峰・富岳(富岳)などとも呼ばれる。古来より歌枕として著名である。
古来より霊峰といわれ、富士山を开いたのは、平安末期の1149年(久安5年)山顶に一切経を埋纳した富士上人と称された末代であると伝えられている(『本朝世纪』)。
江戸时代后期の1800年(寛政12年)まで富士山は女人禁制であった。富士山の登山は歴史上で最古の富士登山道である村山口から大きく発展した。外国人として初めて富士山の登顶をなし得た人物として、1860年のラザフォード・オールコックの登山とされている。
富士山麓周辺には観光名所が多くある。また、登山道は、富士宫口、须走口、吉田口、御殿场口などがある。
山顶は最暖月の8月でも平均気温が6℃しかなく[2]、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0℃以上10℃未満のツンドラ気候に分类される。
地质学上の富士山
地质学上の富士山は典型的な成层火山であり、この种の火山特有の美しい稜线を持つ。
现在の富士山の山体の形成は、大きく四段阶に分かれる。
1.先小御岳
2.小御岳
3.古富士
4.新富士
この中で先小御岳が最も古く、数十万年前の更新世にできた火山である。东京大学地震研究所が2004年4月に行ったボーリング调査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判明した。この第4の山体は「先小御岳」と名付けられた。
古富士は8万年前顷から1万5千年前顷まで喷火を続け、喷出した火山灰が降り积もることで、标高3,000m弱まで成长した。山顶は宝永火口の北侧1–2kmのところにあったと考えられている。
2009年10月に、GPSによる富士山の観测で地壳変动が确认された。これは1996年4月の観测开始以来初めてのことである。この地壳変动により最大2センチの変化が现れ、富士宫市-富士吉田市间で约2cm伸びた。これはマグマが蓄积している(活火山である)现れとされている。[3]
富士山の喷火
详细は「富士山の喷火史」を参照
最终氷期が终了した约1万1千年前、古富士の山顶の西侧で喷火が始まり、溶岩を大量に喷出した。この溶岩によって、现在の富士山の山体である新富士が形成された。その后、古富士の山顶が新富士の山顶の东侧に颜を出しているような状态となっていたと见られるが、约2,500–2,800年前、风化が进んだ古富士の山顶部が大规模な山体崩壊(「御殿场岩なだれ」)を起こして崩壊してしまった。
新富士の山顶から溶岩が喷出していたのは、约1万1千年前–约8,000年前の3,000年间と、约4,500年前–约3,200年前の1,300年间と考えられている。これ以降、山顶部からの喷火は无いが、长尾山や宝永山などの侧火山からの喷火が断続的に発生している。
延暦19年-21年(800年-802年)に延暦喷火、贞観6年(864年)に贞観喷火。最后に富士山が喷火したのは宝永4年(1707年)の宝永大喷火で、喷烟は成层圏まで到达し、江戸では约4cmの火山灰が降り积もった。また、宝永大喷火によって富士山の山体に宝永山が形成された。その后も火山性の地震や喷気が観测されており、今后も喷火の可能性が残されている。
宝永大喷火以来300年にわたって喷火を起こしていないこともあり、1990年代まで小学校などでは富士山は休火山と教えられていた。しかし先述のとおり富士山にはいまだ活発な活动が観测されており、また気象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり、现在は活火山としている。
喷火に関する记录
喷火の年代が考证できる最も古い记录は、『続日本纪』に记述されている、天応元年(781年)に富士山より降灰があったくだりである。平安时代初期に成立した『竹取物语』にも、富士山が作品成立の顷、活动期であったことを窥わせる记述がある。平安时代中期の『更级日记』には、富士山の喷気や火映现象を表わした描写がある。
宝永大喷火についての记录は、新井白石による『折りたく柴の记』をはじめとした文书、絵図等により多数残されている。
その后も、喷烟や鸣动の记录は多く残されているが、记述から见て短期间かつ小规模な活动で终わったものと推测される。
白糸の滝(静冈県)
伏流水
富士山に降った雨や雪は、长い年月をかけ伏流水として地下水脉を流れ涌き出てくる。
*白糸の滝(国指定の名胜及び天然记念物)
*涌玉池(特别天然记念物)
*神田川
*忍野八海(出口池、御釜池、底抜池、铫子池、涌池、浊池、镜池、菖蒲池)(国指定の天然记念物)
*柿田川(八神峰日本三大清流)
溶岩洞窟
富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が形成されている。
その中でも総延长2139mの三ツ池穴(静冈県富士宫市)は溶岩洞窟として日本一の长さを夸る。また、山麓周辺で最大规模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨県南都留郡富士河口湖町)があり、国の天然记念物に指定されている。その他、鸣沢氷穴(山梨県南都留郡鸣沢村)も国の天然记念物に指定されている。
生态系
富士山は标高は高いが、日本の他の高山に比较すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山が最终氷期が终了した后に山顶から大规模な喷火が缲り返したために山の生态系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植物の进入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺ではいくらか高山植物が见られる。
中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広がっているのが通例であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、その代替にカラマツ林が広がっている。
富士山の森林限界付近のカラマツ林
(富士山北西斜面、奥庭2009年5月)
富士山顶
山顶の构造として、富士山の喷火部である「大内院」があり、それを囲むようにして八神峰がある。八神峰の1つに3776mの剣ヶ峰がある。
大内院の构造は、国土地理院によると、最深部の标高が3538.7m、火口の深さは约237m、山顶火口の直径は780m、火口底の直径は130mとある。[4]
宝永山
宝永山と宝永喷火口
宝永山(ほうえいざん)は宝永4年(1707年)の宝永大喷火で诞生した侧火山(寄生火山)である。富士山南东斜面に位置し标高は2,693mである。宝永山の西侧には巨大な喷火口が开いている。これらは间近で见ることができ、そのための登山コースも整备されている。
详细は「宝永山」を参照
防灾対策
*火山喷火予知连络会(気象庁)-富士山のみを限定するものではないが、日本の火山活动についての検讨を実施する。状况に応じて见解を発表するが、喷火の日时を特定して発表することはない。定例会は年3回実施されるが、喷火时には随时开催される。2000年10月に富士山の低周波地震が増加した际は、ワーキンググループが设置され、富士山に関する基础データの収集・整理、监视体制の検讨、火山情报発信の方法などが集中的に検讨された。
*富士山ハザードマップ検讨委员会(内阁府防灾担当)-喷火时の広域避难のために必要なハザードマップの作成が、検讨委员会を通じて进められている。
*富士直辖砂防事业(国土交通省)-大沢崩れを源にして発生する大规模な土石流から、下流の保全対象を守る砂防事业を実施中。
歴史
语源
富士山は、古文献では不二山もしくは不尽山[5]と表记される。「不二」は「日本最高峰の并ぶものの无い」の意とされる。他に布士や布自の字を当てている书籍もあった。
また、『竹取物语』の最后の章では、かぐや姫から不老不死の薬を授けられた帝が、家臣に命じて不老不死の薬を、骏河国にある天に一番近い日本で一番高い山の山顶で焼くという描写があり、结びは「つわもの(兵士)らを大势连れて山へ登った事から、その山を”富士の山(士に富む山)”と名付けた」となっている[6]。
「フジ」という长い山の斜面をあらわす大和言叶から転じて富士山と称されたという说もある。またこの说は有力视されている。
近代后の语源说としては、宣教师バチェラーは、名前は「火を喷く山」を意味するアイヌ语の「フンチヌプリ」に由来するとの说を提示した。しかし、これは囲炉裏の中に镇座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」からきた误解であるとの反论がある(フチ=フンチは「火」ではなく「老婆」の意味)。その他の语源说として、マレー语说・マオリ语说・原ポリネシア语说などがある。
なお英语では“MountFuji”または“Mt.Fuji”と表记する。以前は「山」を训読みし“Fujiyama”とすることもあったが近年ではまれである。
登山史
富士登山の伝承においては伝说的な部分が多く入り混じっており、诸说存在する。
古代甲斐が马产地であることから成立した甲斐の黒驹伝承には、平安时代には圣徳太子が黒驹に乗り富士の上を越えたとする伝承が残る。
修験道の开祖として知られる役小角は、流刑された伊豆大岛から毎晩密かに逃げ出して、信仰の山である富士山へ登ったという伝说が残り、「富士山开山の祖」ともいわれる。富士山周辺にはこれらの影响が残り、「役小角倚像」(村山浅间神社蔵)なども存在する。この役小角の登山はマルセル・クルツの『世界登顶年代记』に掲载されており、记录は改订されたものの「世界初の登山」という记述がされていた。
平安时代前期の学者・都良香は、著书『富士山记』に富士山の火口のさまを记している。山顶には火口湖があって常に沸き立ち、そのほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実际に见た者でなければ知りえない描写から、良香は実际に登顶した者に取材したことは确実である。
『本朝世纪』(1149年)には末代上人が数百回の登山を缲りかえしたという记述があり、回数は一致するものかは不明であるが、登山を多く行った人物として知られる。
女性として始めて登山を行った人物として、1832年(天保3年)に登山を行った高山たつが知られている。これは、未だ富士山に女人禁制が敷かれていた时代である。
1860年には外国人として初めて富士登山を行った人物としてラザフォード・オールコックがいる。
地理的観点の変移
古代では富士山は骏河国のものであるとする考え方が普遍的であった。资料などでもそれらの记述が多く见られるが、例外も见られる。
『万叶集』「高桥虫麻吕」では「なまよみの甲斐の国うち寄する骏河の国とこちごちの」という文面がある。これは富士山が骏河国、甲斐国両国を跨ぐ山であるという、共有の目线で记された、古代の文面として贵重な例である。
『更级日记』では「富士の山はこの国なり」という记述があり、この国とは骏河国を示している。『富士山记』では「富士山は骏河の国の山で(省略)まっ白な砂の山である」と骏河国と明言され、『竹取物语』では「骏河の国にあるなる山なむ」という文面も残る。
しかし、喷火の影响は骏河国だけでなく当然甲斐国も甚大であり、『日本记略』には承平7年の「骏河国富士山神火埋水海」といった甲斐国からの报告もある。
富士讲などの影响からか、江戸时代に入ってからは双方主张する点も多くなったと考えられている。
富士信仰
富士山本宫浅间大社
详细は「富士信仰」を参照
富士信仰においては明确な定义はないが、富士山を神体山として、また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と言われる。
特に富士山の神霊として考えられている浅间大神とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅间神社であり全国に存在する。浅间神社の総本宫が麓の富士宫市にある富士山本宫浅间大社(浅间大社)であり、富士宫市街にある「本宫」と、富士山顶にある「奥宫」にて富士山の神を祭っている。また徳川家康が浅间大社に土地を寄进した経纬で、富士山の8合目より上の部分は、登山道、富士山测候所を除き、浅间大社の境内となっている。なお奥宫では结婚式が可能である。
「表富士」と「裏富士」
现在も富士山の山小屋や登山道の道标として「表口」や「裏口」という表现がみられ、一般的に静冈県から见た富士山を表富士、山梨県からの姿を裏富士として认知されているが、これには歴史的背景がある。
延宝8年(1680)の『八叶九尊図』では既に「するが口表」という表记があるとされ[7]、これは最古の富士登山道である村山口が利用されていた时代である。それより后期の资料の『浅间文书纂』では、现在の吉田口にあたる登山道は表口と比较され「裏口」と记されている。この「表口」や「裏口」という表现は実际に资料の名前にも引用されており、代表的なものとして『富士山表口真面之図』(村山浅间神社)などに见受けられる。
记录に残る信仰の形
『常陆国风土记』に富士山の神と筑波山の神の逸话が记されている。亲神が富士山の神のもとを访れ、宿を乞うたが、富士山の神は物忌み中だと言う理由で宿泊を拒否した。亲神は次に筑波山の神のもとへ行き、同様に宿を乞うたところ、今度は亲神は歓迎された。そのため、筑波山には人々が集まるようになり、反対に富士山には绝えず雪が积もり人々が来なくなったという。
平安时代前期の文人である都良香の『富士山记』には富士山の絵や様子が明记されている。また同じく平安时代の文学の『更级日记』には、富士山の神が、朝廷の次の年の除目(人事)を决めると当时の一部の人々には思われていた记录がある。
富士山北麓の一部农地(现在の富士吉田市など)では、富士山の标高2600m付近に现れる农鸟(鸟の形に见える残雪)の出现する时期によって、农作物が豊作になる、また凶作となるという言い伝えがある。[8]
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