日语论文,关于日本人の本音と建前
本音と建前
本音ー真実の感情、欲求をさす。これらは社会立场から期待、要求される事と违う场合があり、しばしば正直に表现されない。
建前ー公に表わす行动、意见を指す。これは社会立场から期待、要求されることで、本音と一致しない场合が多い。
日本人の人间関系「旅の耻はかき舍て」ということわざがある。旅に出たら、どんなことをしても许されるという意味だ。昔の日本では、それほど简単に旅に出ることはできなかった。多くの人は生まれた土地を离れることなく、死ぬまで同じ所に住み、その上、厳しい上下関系の中に生きていた。だから、旅行はその枠から出られる、ただ一つの机会だったわけだ。それで旅に出たらすこしぐらいの自由は许してもよいと考えたのだろう。无礼讲という言叶もある。「今日は无礼讲で饮もう」と言えば、その时だけは相手が自分より上か下かなどは忘れ、失礼があっても少しぐらいなら気にせず付き合うことができる。しかし、この时が过ぎれば、また厳しい上下関系に戻らなければならない。しっかりと决められた社会の枠が壊れずに长く続いたのは、无礼讲のような息抜きが时々あったからなのだろう。现代の日本では、社会全体としての上下関系はほとんどなくなったとはいうものの、昔とはまた违った集団の秩序がしっかりと出来上がっている。その集団のひとつは会社である。会社の中では相変わらず、社长、部长、课长、平社员という秩序が厳しく守られ、それを乱そうとするものはあまりいない。ところが、会社の中の人间関系は気にかけるのに、会社の外の人に対しては、関心を持たない人も多い。电车の中で、お年寄りが立っていても知らないふりをしておきながら、自分の先辈や会社の上司が乗ってくると、あわてて席を譲ったりすることさえある。このような态度は「ウチ」と「ソト」という関系から说明できる。自分の属している社会を「ウチ」といい、「ウチ」のものに対しては规律正しくその秩序を守るようにする。一方、「ソト」に対しては「ウチ」に対するほど関心を持たない。外国人のことを「外人」というが、これもやはり同じような意识から出た言叶ではないだろうか。何年日本に住んでいようと、日本人より日本的であろうと、いつまでも「外人」と呼ばれるよいう叹きを闻いたことがある。「日本人は确かに大変丁宁だが、ただし、それはお客様に対する丁宁さであって、自分たちの社会には决して入れてくれない。」という叹きだ。「よそ者」というわけである。このように、「ソト」のものをなかなか「ウチ」へ入れようとしないのは、しっかりと出来上がった「ウチ」の秩序が乱されはしないかと心配し、そうすることで、「ウチ」社会を壊すまいとしているからなのだろうが、これは日本だけのことだろうか。
恐らく日本にいる外国人の中で、日本の「建前」と「本音」に悩まされない人はいないと思います。「建前」と「本音」は、大和民族特有の表现文化です。前者は表に出しているもの、后者は内心に思っているもので、両者间のギャップは、时には天と地の差があると言っても决して过言ではありません。「建前」を通じて「本音」をいかに的确に掴むかは日本人の幼い时からの训练の积み重ねであって、外国人の我々にとっては决して简単に身につけられるものではありません。取りあえず、日顷からダイレクトに自分の意思を表现しない日本人が表に出している事に対しては、文字通りの単纯理解は极めて危険です。
殆どの外国人は进学なり、就职なりで日本で面接を経験したことがあるわけです。そこで一つの経験谈があります。もし、面接官が目の前であなたを褒め尽くしているとしたら、ほぼ结果ははずれに违いありません。
私自身も要领を得なかった経験があります。ある日、自分のアンダースカートのレースが表に露出してしまったことに全然気が付かない私は、日本の友人に「绮丽なレースですね」と声をかけられました。その意味を间违って褒め言叶として受け止めた私は、気分扬々得意になり、全く自分に対する注意とは思いもしませんでした。あの日から几年も过ぎましたが、思い出すたびに自分の钝感さに颜が赤くなります。
会社の有给休暇はもう一つの例です。
有给休暇は、労働法により保护される働く人の権利であり、社员として年间一定日数の有给休暇を贳えることは明白に会社の社则で决められています。しかし、だからと言って、正々堂々とその権利を享有するわけにはいかないものです。実际は、社员に権利を与えるのはあくまでも会社の「建前」であって、いったん本当に休もうとすると休む间は担当业务はほかの人に分担してもらわなければいけないので、迷惑だという事で有给休暇を取るのは会社にとっても、同僚にとっても决して喜ばしい行动ではないというのが「本音」です。その为に、年间に1ヶ月くらいの有给休暇が水の泡になってしまい、せっかくの権利を放弃せざるを得ない社员がずいぶんいます。
まあ、働いている间は自分のポジションを确保する为にやむを得ないかも知れませんが、会社を辞める前には、せめて贮まりに贮まった有给休暇を消化したいのが普通でしょう。
しかしそうもいかないのです。こんな事例があります。私が勤务している会社で日本人の同僚と外国人の同僚が同じ时期に会社を辞めました。お二人とも前々から会社に辞める意志を伝えていたにも関わらず、なかなか引き継ぎの后任者を配属してもらえませんでした。日本人同僚は有给休暇を消化するどころか、辞める前日も遅くまで残业せざるを得ず、业务処理に追われました。もちろん、当たり前ですが会社からも周りからもそれなりの评価を贳いました。一方、侨居生活の経験で自分の権利を自分で守る知恵を身につけた外国人同僚は、辞める前に自分の受けるべき権利をちょっと主张しただけで、廻りに白い目で见られてしまいました。私は外国人として、その日本人同僚の行动から、お人好し志向の日本人の民族性を几らか読めたような気がしますが、日本企业の主张と现実の不一致に疑问を感じます。
类似事例がいっぱいあると思います。要するに、日本で生活する以上、「建前」と「本音」という文化は避けては通れないもので、みんな绝えず悩まされるうちにだんだん贤くなって、成长していくのです。
原则として立てている方针、表向きの考えのことを「建前」という。
それは自分や相手の立场を考えるが故に出る言叶や态度でもある。
それに対して、本心から出る言叶のことを「本音」という。
人を思いやるが故に、周りのことを考えるが故に本音が言えないこともある。
建前というのは决して嘘ではなくて、自分が思っている考えの一つだと思う。
しかし本当の心の奥の言叶のことを本音と言うのだと思う。
ある时、相手のことを考えて话をしていたら
「それは本音ですか?建前ですか?」と闻かれるようになった。
嘘ではないが本当は违うことが言いたかった。
それを见抜いた故の质问なのだろう。
人には自分の理性や良心や立场から、言えない事もたくさんある。
あるいは话している相手への思いやりや配虑や立场から、言えない事もたくさんある。
ある顷から、场面を选んで、建前ばかりではなく本音でぶつかるようになった。
しかし、本音と建前を教えてくれたその人が、本音を言わないことに気づいた。
建前もその人の考えの一つなのは间违いないのだけれど。
言叶が无くとも、相手の言叶を読み取ることは出来る。
しかし本当の本音の言叶を闻きたいと思うのはいけないのだろうか。
自分らしく自分なりに自分の言叶で。
幸せになりたいからこそ本音を言う必要もある。
建前と本音の使い分けが、人を幸せにすることもあるに违いない。
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